2025年4月27日放送

会場
御前崎市民会館(御前崎市)
講師
相田みつを美術館元館長 相田一人

プロフィール

1955年栃木県生まれ。相田みつをの長男。1996年から相田みつを美術館の館長を務めた。全国各地での講演活動や執筆活動などを行う。2024年、相田みつを生誕100年を迎えた。

第 2429 回
人生の外灯

父、相田みつをは1991年に67歳で亡くなっています。亡くなる直前まで元気に筆を取り、たくさんの詩を書き、「来年は久しぶりに展覧会を開き、大きな作品を発表したい」と張り切っていました。ところが、脳内出血が起きて意識のない状態が2週間ぐらい続き、あっけなく亡くなってしまいました。

父亡き後、私は遺作集を編集しました。父が存命のとき本の手伝いはしたことがあったのですが、自分の責任で父の本を作るというのは、ものすごくプレッシャーがあり怖かったです。

父のアトリエの整理をしていると、こんな作品を見つけました。

【 外灯というのは人のためにつけるんだよな わたしはどれだけ外灯をつけられるだろうか 】

これを見て、私はびっくりしました。「外灯」も「人のために」という言葉もこれまで父の作品に出てきたことはなかったからです。

父の作品に一番多く出てくる言葉は「自分」です。父は徹底して自分にこだわり自分を見つめ、そこから言葉を紡ぎ出して書にした人間です。常に向き合っていたのは人ではなくて、「自分自身」だったと思っています。それが伝わる代表的な作品が、こちらです。

【 自分が自分にならないで だれが自分になる 】

言い換えると、「相田みつをが相田みつをにならないで、誰が相田みつをになるんだ」という意味だと思います。それぐらい父は、自分にこだわったんですね。「自分とは一体何なのだろう。自分はこれからどう生きたらいいのか」と、そのことだけが、常に父の頭の中にあったと言えます。自分と対話することは、作品を生み出す一番の原動力だったと思います。

そんな父が、急に「外灯」だとか「人のためにつける」といった言葉を使ったので私は戸惑ったのですが、では、なぜこの作品を晩年に残したのでしょうか。

真っ暗な道を歩いていて、電柱などにほのかな明かりが灯っているとホッとしますよね。徹底的に自分にこだわって、自分を見つめて書いてきた言葉、それが結果的に父にとって、自分のための外灯にもなったのではないかという気がするのです。だいぶ悩みましたが、この作品を父の遺作集の最初のページに入れることにしました。

【 つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの 】

これはどう考えても、父が自分に向けて書いています。父はそんなつもりで書いていたわけではないと思いますが、父の暗い道、人生の大変な道をかすかに照らす言葉になったのではないでしょうか。

【 しあわせは いつも じぶんのこころがきめる】

父の人生は、いわゆる成功とはほど遠く、世に知られたのも遅かったですし、いろんな生活上の苦労、創作上の苦悩が亡くなるまで続きました。ですから、この言葉は自分を照らし、支える言葉だったように思います。

父は晩年、自分が紡いできたこういった言葉が、自分にとって結果的に外灯の役割になったのであれば、もしかしたら人がその言葉を見て外灯のように感じてくれるかもしれないというような心境にふとなったのではないか、息子の私はそんな気がしています。

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