2013年7月 6日放送 金澤泰子さん(第1845回)
会場 | 菊川文化会館アエル(菊川市) |
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講師 | 書家 金澤翔子の母 金澤泰子 |
講師紹介 | 1943年生まれ。明治大学卒業後、書家の道へ。 |
会場 | 菊川文化会館アエル(菊川市) |
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講師 | 書家 金澤翔子の母 金澤泰子 |
講師紹介 | 1943年生まれ。明治大学卒業後、書家の道へ。 |
私の人生の最も根源的な出来事は、
ダウン症児である娘の翔子を授かったことです。
42歳のとき、涙にくれてダウン症の告知を受けました。
40代でそんな子を産んだら責任を負えないと思い、
始末しなければならないと考えました。
半ばノイローゼでした。
そして、ミルクを薄めて飲ませれば衰弱死するのではとそのミルクを与えると、
翔子は飲みながら手を伸ばして私のほっぺたをなでたり、
泣きながらミルクを与える私の涙をぬぐってくれたりしました。
ダウン症の特徴でもあるのですが、いつもニコニコして私を救ってくれました。
この子は賢いと直感しました。
小学校では普通学級に入れてもらえました。
とてもありがたいことでしたが、翔子は何をやってもいつもビリでした。
100メートル走も「ダントツ」のビリで、
応援するみんなに手を振りながらゆっくりとゴールインします。
私は担任の先生に「お手数をかけて申し訳ありません」と言うと、
その女の先生は「いいのよ、翔子ちゃんがいるとクラスが穏やかでやさしくなるのよ」と
言って下さいました。
当時たくさんの本を読んでいた私は、
「神は不要なものをこの世に作らない」という言葉を見つけ、
「そうだ、ビリをやっていれば成績の少し良くない子も落ち着くし、
翔子はちっとも苦しくないのだから、親さえ覚悟すればいいのだ」と考えました。
小学校4年生からは普通学級を出されて特別支援学級のある学校に移ることになりました。
友達もいなくなり、茫洋とした時間の中で一緒に生きてゆくのは苦しいことでした。
そして、そんなやるせない気持ちをぶつけるために翔子に書道で般若心経を書かせました。
毎日朝から晩まで、大きな文字で3千字は書きました。
翔子は私に怒られ泣きながらも、
一行書き終えると「お母様ありがとうございました」と言いました。
仕方なく始めた般若心経が、今の翔子のベースを作りました。
思えば、52歳で亡くなった翔子の父親が
「翔子は書がうまいから、20歳になったら個展を開いて、
ダウン症の事も世間に知らせよう」といっていたのを思い出し、
その通りに実行したら、全国から見に来た人たちが涙を流して感動して下さいました。
新聞、テレビに取り上げられ、
ついには「日本一のダウン症書家」という評価をいただいたのも、
闇の中から光を見出した結果なのです。