2016年4月10日放送 齋藤孝さん(第1980回)
会場 | 原地区センター(沼津市) |
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講師 | 明治大学文学部教授 齋藤孝 |
講師紹介 | 1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、 |
会場 | 原地区センター(沼津市) |
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講師 | 明治大学文学部教授 齋藤孝 |
講師紹介 | 1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、 |
人に大きな影響を与えることを感化すると言いますが、
吉田松陰は日本一と言ってもいいくらいその力を持っていました。
松陰は20代の半分近くを牢屋で過ごし、
何を成したわけでもないのですが、とても偉い人と言われています。
それはなぜでしょうか。
松陰はわずか3年間、松下村塾という塾を開いていました。
門下に久坂玄瑞や高杉晋作と言った幕末のリーダーたちがいました。
高杉晋作なくして討幕はなかったと言われています。
晋作は奇兵隊を作り、長州藩を率いて幕府と戦い、倒しました。
それから薩長同盟が組まれ、明治時代が幕を開けます。
晋作を育てただけでもすごいことなのに、
そのほかにも多くの人材がこの松下村塾から巣立ちました。
それは松陰の熱がすごかったのです。
まるで鉄を入れると溶けてしまう溶鉱炉のように、
若い人たちが松下村塾に集まり、松陰のたぎる様な志に感化されました。
始めは生意気だった晋作も松陰に心酔し、ついてゆくのです。
その感化力の柱には同志と言う考えがありました。
生徒たちとさほど年も離れておらず、
教えるのではなく、一緒にこの国を守り作っていこうという立場です。
最期は刑死しますが、その直前に「留魂録」という手紙を残しています。
遺書ともいえるものです。
そこには、自分が死んでも種は残る、
皆頼んだぞ頼んだぞと魂の叫びのような文章が残されていました。
それを読んだ門下生たちが志を継いで、統幕、明治維新へとつながっていくわけです。
人は死んでも魂は生き続けるものだと感じさせる話です。
当時使っていた教科書は孟子ですが、
その古い書物を読みながらやる松陰の勉強の仕方は、
いま日本はこうなっているが皆はそれについてどう思うか、
日本はこれからどうすればいいのかと常に議論を戦わすものでした。
そのやり方は100年も時代を先取りしていたと言えます。
今の世の中で言われている新しい学力は、
いろいろな情報を自分で集めて問題を見つけ、
それを解決するために決断し行動するまで。
この全部が新しい学力と考えられています。
伝統的な学問も大事ですが、
これから先をどうするかという問題を解決する力、
大変な学力と言えますが、松下村塾ではそれを実践していたのです。