2020年2月23日放送 相田一人さん(第2167回)
- 会場
- 麁玉小学校(浜松市)
- 講師
- 相田みつを美術館館長 相田一人
講師紹介
1955年栃木県生まれ。相田みつをの長男。1996年から相田みつを美術館の館長を務める。全国各地での講演活動や執筆活動などを行う。2024年、相田みつを生誕100年を迎えた。
第2167回「あたらしい門出」
私の父、相田みつをは、29歳で母と結婚しました。
そして翌年に私が、その四年後に妹が産まれました。
父は、「自分の筆一本で一家四人の生活を支える。」と母に宣言したそうです。
弟子は取らない、副業もしない、
自分の個展を開き、そこで売れた作品の収入で生活をしていました。
しかし、作品がそんなに多く売れる事もなく、苦しい時代が長く続いたそうです。
そんな中、最も生活が苦しかったのは、父が30代半ば頃でした。
次に紹介する「あたらしい門出」という作品は、その頃制作されたものです。
あたらしい門出をする者には
新しい道がひらける
この作品には、父のある思いが込められていると思います。
父は、書の作品を制作する時、何枚も何枚も書き、
その中で一点だけ、最終的な作品として世に送り出していました。
ろうけつ染めも同じです。
何度も染め、自分が納得する色が出るまで繰り返していました。
なぜ父が、ろうけつ染めの作品を手掛けたかというと、
染色の技術に関心があったのと、書の作品は、あまり売れなかったのですが、
ろうけつ染めの作品は、若干多く売れたからだそうです。
それは、暖簾や風呂敷などの実用品としても重宝されたからです。
例えば、暖簾を作って欲しいと商店から依頼があると、
納品日ギリギリまで、ろうけつ染めを繰り返していました。
父の思い通りの色が出るまで、世を徹して染めていたのです。
納得した作品ができ上がると、朝方まで隣で待っていた母が、
足踏みミシンで暖簾に仕上げ、商店に納品していました。
私は、両親が苦労して育ててくれた事を、そのミシンの音で覚えています。
父は67歳で亡くなりましたが、その短い人生の中で書体や作風は変化しています。
そこに込められた父の思いについて、いくつか作品を紹介しながらお話したいと思います。